美川達治
私の父(初代院長 故・美川三郎)
美川三郎は熊本県玉名の地主の三男に生まれた。旧制五校を経て、昭和3年に九大医学部を卒業。後に東大眼科教授になられた、庄司義治先生の門下生となった。医局時代、庄司先生はお弟子さんを集めてフランス語と詩吟の勉強会をされていた。父はフランス語の勉強は失礼し、専ら詩吟の方だけ参加していたらしい。私も兄も小学生の時から父より詩吟を教えられた。例えば頼山陽「天草灘」、上杉謙信「九月十三夜」、菅原道真「九月十日」など。小学校4年の時、クラスの余興会でこれをやったら、同級生はキョトンとしていたが、担任の先生が大喜びしたのを憶えている。
父と母は結婚した後、昭和8年に釜山の病院に赴任。そこで兄・隆造が生まれた。その後福岡へ戻り、九大大学院で学位論文の仕事をすませ、昭和11年に再び韓国へ。今度は木浦の病院へ赴任し、そこで私が生まれた。昭和14年に佐賀県立病院好生館の眼科へ赴任。以後、我が家は佐賀に住みつくことになった。昭和16年に妹・総子が生まれている。
初代の頃の美川眼科医院
父の好生館勤務は短く、約2年間であった。開業をするために病院を辞したのが昭和16年12月8日、なんと太平洋戦争が始まった日である。しかし当時は、この戦争がどのように展開し、どういう結果をもたらすかなどは全く予想できなかった時代であった。 ともあれ、昔は蓮池町と呼ばれていた場所で、いきなり灯火管制下の開業となってしまい、両親もヤレヤレと困惑していたに違いない。従って、開業した最初の10年は戦中戦後の混乱期にぶつかる。日本国中みな同じだろうが、苦労の連続であったようである。
当時は眼科医が少なかったため、父は県内各地のかなり遠方まで学校健診をしていたらしい。
昭和20年代には佐賀県眼科医会会長、佐賀市医師会長などの仕事にも携わった。
父から私、そして娘へ
そして、積年の願いであった国民医療皆保険制度がようやく整ってきた昭和37年1月、父はふとしたことから風邪をこじらせて肺炎になったかと思うと、あっという間に脳出血で昏睡状態になり、わずか2日ほどで文字通り急逝してしまった。享年60歳。 私のインターンが終わり、国家試験を受ける直前。父と同じ眼科医になるわずか2ヶ月半前のことだった。
父の死により診療所は閉院。その後昭和44年に私が新たに開業するまで、7年ほどのブランクがある。
父が亡くなって約20年後、ある日父の夢を見た。この夢は不思議に今でもよく覚えている。
蓮池町の父の昔の診療所の椅子に私が座っている。父はどこかへ出かけており、私が留守番をしているという状況である。夢は過去と現在が混ざり合うものだ。診察室の椅子に座っているのは昔のインターンの頃の私ではなく、現在の私だった。今の看護師長が横にたっており、患者さんは誰もいないという、本当に一瞬の情景であった。
その時は、今頃どうしてこんな夢を見たのかと不思議に思ったものだが、考えてみれば父は私が眼科医になる直前に死去しており、共に眼科医としては過ごすことが出来なかった、父の仕事を手伝うことが出来なかったという思いが、心の片隅に残っていたのかもしれない。
現在は、父が死去してから5年後に生まれた娘・優子と仕事をしている。彼女が手術をしているところなどを見ると、ああ、この姿を父に見せたかったなぁ、と思うのである。
父が亡くなって約50年。あの急逝した晩の事が、ついこの間のように思えてくる。